九十歳の服部さん(仮名)は、嚥下障害による肺炎をくり返すため、大学病院で胃瘻造設(PEG)を受けて退院して、おサル先生が往診するようになった。服部さんは経口摂取が全くできず、完全なPEG栄養管理ではあったが、かすれた声で話をすることもできたし、寝たきりではなく、つたえ歩きでトイレに行くこともできた。しかし、いつもはボーっと寝ていることが多く、おサル先生は型通りの診察をしてくるだけだった。ただ、老父の介護に大変熱心な家なので、往診時には老いた妻と息子夫婦が歓待してくれた。
ある日、玄関先に置かれた「鉄道OB新聞」を目ざとく見つけたおサル先生は、「ひょっとして国鉄にお勤めだったのですか?」と尋ねた。
「主人は機関士だったのです。しがない蒸気機関士でしたが、息子は国鉄の管理職になって、数年前に退職いたしました。」とにこやかに答える奥さんは満足そうであった。
「父子二代の国鉄マンですか。素晴らしいですね。」
言われてみれば、服部さんは小柄ではあるが、がっちりした体格で、なるほど元機関士といった風である。
おサル先生は急にむずむずと蒸気機関車現役時代の機関士の話を聞いてみたくなった。
「少しお父さんにお訊ねしてもいいですか?」
息子夫婦とその母親の見守る中、おサル先生はちょっとドキドキしながら、枕もとに顔を寄せて話かけた。
「服部さんは機関士さんだったんですね?」
「…。」
「国鉄にお勤めだったから、さぞや転勤が多かったでしょう?」
これには奥さんが代わりに「ただの現場の機関士ですから、北陸線でも金沢周辺ばかりでしたよ」と答えた。
「北陸線ですか。この辺りで難所といえば…」
「倶利伽羅峠。」
初めて服部さんが口を開いた。これにはギャラリーが色めき立った。おサル先生は自分の顔が紅潮するのが分かった。
「五軸の、五軸の機関車がありましたよね。あれも運転されたのですか?」
「あー、E10。あれも乗ったな。」
「金沢近辺はD51とC57ばかりだと思っていました。先生、お詳しいですね」と息子さん。
そうこうするうちに、老父は疲れた様子を見せたので、「これは失礼しました」とおサル先生は頭を深々と下げて、お宅を後にした。
おサル先生は大変な発見をした気持ちで帰り道のハンドルを握った。峠の機関車を実際に動かしていた男が目の前にいる。これは貴重な生き証人だ。たしかに医者の職務を越えた行為かもしれないが、服部さんの体力に留意しながら、できる限りの聞き取りをしたいと思った。