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NHKラジオ深夜便・こころの時代 『聴診器と六十年』

若い医学徒への伝言(メッセージ)
本間日臣著『若い医学徒への伝言』

2002年末、十二月十一・十二日の二日間、「NHKラジオ深夜便・こころの時代」で本間日臣博士の『聴診器と六十年』が放送されました。

午前四時台の放送にもかかわらず、全国から大きな反響がよせられました。


NHKディレクター中野正之氏は、本間日臣著『若い医学徒への伝言』に思うところがあり、本間博士に自番組への出演を強く希望されました。一度は遠慮された博士に懇請して番組は実現しました。

放送第一日目、番組は打聴診について伺うところから始まりました。常に世界の先進医学、医療と共にあって、我が国の呼吸器病学を牽引してこられた博士は、医の原点ともいうべき打聴診を、自らの診療で大切にされていること、そして、打聴診を軽んじてはならないことを力説されました。

本間先生が、半世紀にわたって呼吸器病学に携わることになったのは、かつて死の病であった国民病の結核治療が、自分のめざす医学の道であるという使命感でした。

また、昭和十年代の軍国主義下にあって、夭折の予感を抱きつつ、学生が人間の存在とは何かを真剣に哲学し、人生観、世界観を模索した時代背景を述懐されましたが、穏やかながら強靭な意志をお持ちの先生を彷彿させるものでした。


続いて、医学部卒業後、海軍短期軍医となってテニヤンの航空隊基地に勤務し、やがて玉砕に至るまでの戦争体験を回想されましたが、その生々しいドキュメント(実録)に、聴取者は誰もが圧倒されました。

芥川賞作家で独自な作風で知られる中山義秀の唯一の戦記物『テ二ヤンの末日』は、本間博士が同島で戦死したクラスメイト大島軍医の追悼手記を元に書かれた作品ですが、このことは一般には知られておりません。

本間博士は、水に飢え、スコールを手のひらに貯めて飲もうと繰り返しているうちに脱水症で意識を失い、気がつくと捕虜になっていたことなどを淡々と話されました。

放送二日目は、テキサス州ヒューストンの捕虜収容所で、図らずも世界の先進医療を垣間見る好機に恵まれ、驚きをもって勉強したことの回想を懐かしく語られました。

帰国後は結核治療にあたると同時に、海外の先進医学の修得に励み、再びフルブライトの留学生としてアメリカのコロンビア大学に向かわれましたが、まさに我が国呼吸器病学の黎明期を目の当たりにするようなお話でした。

「我が国では、当時はまだ、呼吸器病学が結核病学の中に埋没していました。しかし、アメリカでは既に結核病学は解決された医学・医療であり、各地のサナトリュームはすでに役目を終わっておりました。私がコロンビア大学で得たものは、すでに結核病学から脱した近代呼吸器病学の発足に立会い、その全体に接することが出来たということです」

クールナン、リチャード両ノーベル賞学者のもとで学んだ本間先生は、帰国後、東京大学医学部講師、虎の門病院呼吸器科部長、順天堂大学呼吸器科教授を歴任され、我が国呼吸器病学の草分けとして病院・大学教壇、学会で臨床、研究、教育にあたられたことを、若々しい声で語られました。

内科の専門分化の歴史的論考、病理学的診断から機能的診断への進展、病理、剖検、画像診断など、長年第一線で指導されてきた本間先生ならではお話でした。

ラジオ深夜便・こころの時代『聴診器と六十年』は、四〇分ずつ二日間の放送でしたが、まさに本間先生の孤高の人生を凝縮した内容でした。


「私は戦争体験者なんでね、われわれの親友がたくさん戦没してるわけです。そういう者がいまだに僕と一緒に生きているような積もりでいますので、彼らのためにもね、悠悠自適なんかしては申し訳ないという気持があるものですから、悠悠自適する積もりはありません」


放送はこの言葉で終わりましたが、その余韻が心に焼き付きました。


先生は、十一月七日午前、虎の門病院の外来診察室で最後の患者を診おわった直後に、胸部動脈瘤破裂のため倒れ、その場で絶命されました。享年八十六歳でした。先生はこの放送を自ら聞くこともなく逝かれました。

「おいたわしく、残念です。今となっては、若い医学徒に遺言を述べられているようで、感無量です」

先生を惜しむこのような聴取者の声は絶えることがありません。先生が「声の伝言」を、私たちに残してくださったことに感謝し、この遺訓を長く継承したいと思います。