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再度の脳出血を乗り越えて我が家へ
~妻・曜子との二人三脚~


池田 暁(夫)札幌市在住

池田 暁さん 札幌市在住

●脳神経外科病院への搬送

平成23年11月28日朝、妻は2泊3日のショートスティに出掛けた。やれやれと在宅介護人の休息の時間を過ごしている夕方、私の携帯が鳴った。

老健の介護師さんから「池田さんが車椅子の上でぐったりしているので、常勤の医師に診て頂きましたが、声を掛けても答えがありません。脳血管障害の恐れがあるので、脳神経外科に搬送します」とのことだった。

【又やってしまったか…】。半身に麻痺のある妻は、気温が低くなると血流が悪くなるのか、麻痺側が「痛い、痛い」と訴える。取る物も取りあえずタクシーでK脳神経外科病院に行った。

暫くして、妻が救急車に乗せられて搬送されてきたが、反応はなくグタッとしていた。色々な思いが走馬燈のように私の脳裡を巡り、不安な時間帯を過ごした。ただただ、反省することばかりだ。

担当看護師からの病状説明があった。病名は脳内出血(右視床下)。意識障害・中枢性麻痺。治療により出血を押さえるが、続くようなら針を刺して血液を抜き取る処置に同意した。病院のICUに寝ている妻は、体温も血圧も安定しないように見えた、病院を信じてお任せするしかなかった。

●2日目の朝が来た

長い夜が明け、早々に病院に向かった。妻は点滴管・酸素マスク、管だらけの病床にいたが、担当看護師から「今朝、話をしたよ」と嬉しい報告を受けた。

弱々しいがはっきりと「何があったの? 今どこにいるの? 私は誰?」と。先ずは、良かったなぁ。

急性期病院のリハビリテーション計画は、進んでいる。「病状の許す限り早期より開始」とばかりに、ベットサイドで理学療法士と運動療法士のリハは開始されていた。一方、言語聴覚士(ST)のリハは無かった。

妻の身体は、コンニャクの様にくたくたで心許ないが、発病前の在宅の生活を希望し、夢を見ている。だからSTのリハを強く求めた(口から食べる事が、どんなリハビリよりも回復に効果があると勝手に信じているものだから) 。望みは叶うものだね、次の日からSTのリハも始まった。

栄養は当然のように経鼻経管栄養になった。また辛い、気の毒な状況に(仕方が無いとは言いながら)ならざるをえない。胸が締め付けられる。マニュアル通りに治療をする病院に文句は言えばないが、妻の意志・希望を聞く場面はあったのか。何時も疑問に感じることなのだ。

●救急病棟からリハビリ病棟へ

2週間経って、リハビリ病棟に移り、本格的なリハビリが始まった。妻の身体は、相変わらずコンニャク状態だった。そして、「小水の出が悪いから泌尿器科で検査をする」と科長から連絡を受けた。

小生は、妻が飲んでいたサプリメント(ソフィβーグルカン)を経管に入れるよう依頼した。以前入院していた病院で、痰が出て頻繁なサクションと高熱が出て安定しない時、当時の担当医に御願いし、改善があった物だから。

しかし、病院側の回答は「担当医が認めないと出来ない」だった。そのような病院側の対応は、妻の入退院で何度も経験しているので、納得しなかった。βーグルカンの妻への実績や成分を説明し、担当医との話し合いを強く求めたところ、同意書を書くことを条件で認めてくれた。

一日6袋、3度の食事のときに経管から入れて頂き、結果は程なく改善された。本当に有り難かった。

病気を治すのは妻本人、妻の身体の機能や免疫力を高めてあげると回復への道筋が見えてくる。病院の治療がベストだと思えないから、妻の気持ちを代弁するようにしている。

妻も小生も、早く妻が良くなって自宅に帰り、元の生活に戻ることを夢見ているんだよ。

今回の出血で視力が落ちたが、好きなテレビを見て情報を取り入れている。日々の治療とリハビリ効果があり、身体の機能が回復するとともに、精神的な回復も見えてきた。

妻は単調な入院生活を送っていた。小生は見舞に行ってなるべくリハビリを見学することにしていた。右足麻痺の妻に、作業療法士(OT)のHさんが、装具を付けて歩く練習をしている。見ていて簡単そうに歩いているので、無謀にも「小生にも出来るかい?」と声を掛けてみた。返事は「いいよ」だった。

すんなりとはいかないまでも、介護は慣れている。少しの支えで妻は両足で立てる。何よりも、妻は歩くことを楽しんでいる。何度かHさんと打ち合わせをして、My装具を造る事にした。つまり、退院し自宅に戻れば2人住まい。道具があればリハビリの回数も増えるのではと考えた。何よりも「自分の足で歩きたい」妻の気持ちに近づくために。

● どうやって栄養を摂るか

在宅介護を目指している妻には、もう一つの障害があった。依然として経鼻経管栄養を続けているが、ここの病院では嚥下機能検査(VF)の出来る設備が無く、転院するしかない。

また、STによる言語療法も毎日続けていた。妻の発音や意欲を感じて小生の素人診断では【口から食べられる】と淡い確信を持っていた。隠れてゼリーを食べさせて、STや看護師から散々怒られた。そこで私達の依頼により、毎回ゼリーを出してもらった。最初は嘗めるだけ、慣れたら一個食べていた。

病院の制度は、私達から見ればピラミッド。医師を動かさないことには、前に進まない。小生も、考えて担当医に面会を申し込み、食べる訓練を御願いした。

3日ほどして「今日から訓練食3を出します」と許可された。妻も2ケ月半ぶりにお粥を口に出来た。本当に有り難い事であった。

●燕下検査を受けるために転院

以前お世話になった札幌S病院には検査設備があることは知っていたが、その時お世話になったN医師は退職していた。今でもN医師の専門リハビリのお陰で、口から食べられるようになったと感謝している。病院のケアワーカーは、別の医師を紹介していたが、一抹の不安があった。

3月15日、病院を信じて転院した。病院は医師により治療方針が変わる、患者は医師を選べないのが実情なんだよ。しかし順序を踏まないと、自宅には戻れない。

病院の制度は私達には解らない。VF検査【燕下造影検査:検査食の流れと貯留状態、燕下器官のX線造影確認検査】はせず、Y担当医は今回の脳出血のX線画像を見て「確実な栄養の保障が出来ないから、食道瘻の造設(PTEG)にサインするように」と言われた。
少し元に戻るが、平成17年1月、この医師によりPTEGを施行した。その後、N医師の専門リハビリにより、食べ物もトロミを付けて口から食べられるようになった。

口から食べることが、どんなリハビリよりも回復には効果があると実感した。そして口から食べられるようになったから、自宅に戻り在宅介護が出来ていた。

食道瘻は水分だけとっていたが、漏れが多く、管は抜いてもらった、瘻孔は直ぐに閉じると知らされていたが、現実は閉じず漏れが酷く、平成19年末に、縫っていただいた。

今回の脳出血で「あのとき食道瘻を残しておけばよかったね」と何度か言われたが、すべて結果論だ。

妻は脳幹出血の重大な病気に遭い、半身麻痺の車椅子生活をしている。少しでも快適な日々を過ごせるようにしたいと思っている。
私達と医師とは、考え方も思いも異なる。同意書を書かない私達に、一週間経っても目だった治療は無かった。「医師を動かさないと」と思い、再度の面談を申し込んだ。Y医師からは、いろいろと嚥下障害の説明を受けたが、一般的で納得できる説明ではなかった。妻の「痛い手術はいやだ、自分で口から食べるから」の意思表示で、鼻の管を抜き、口から食べる訓練をする方針に決まった。
正直不安はあったが、今回の脳出血前まで口で食べていた実績を信じて、念じるだけだった。又、脳神経外科のSTに無理を言って、訓練食を食べていた事実も良いように影響したと思っている。何よりも、妻は食べることが好きなんだね。口から食べるのに、新しい障害は無かった。有難かったな、良かったなぁ。

3月末になっても、札幌では雪が舞う。暖かくなるまで療養させていただくことにした。

ケアマネジャーを中心に、新しいケアプランを考えてくれた。もうすぐだね。

● 6ケ月ぶりの自宅

5月の連休を過ぎた9日に、妻は退院した。

人本来の食べる機能の改善で、以前のように自宅で生活が出来る。最初はいろいろと気を使ったが、〔慣れる〕事が一番。慣れれば知恵も出てくるし余裕もでる。

楽しい事も、大変な事もあるけれど、家族は一緒に生活しなければ楽しくない。自宅での生活は、おかげさまで以前と変わらない。お互い年齢を重ね、疲れやすくなったので、出て歩く度数は減ったけれど、気持ちは変わらない。つい先日も、JRに乗って釧路に行って姉達に合って来た。昔話に沢山の華が咲いた。妻もイキイキしていたよなぁ。

自宅で好きなように過ごしている妻を見ながら、思う。沢山の人が病気になって、悩み苦しんでいる。病気の状況も、家族環境もそれぞれ異なる。病気になった本人も、介護する家族にも、今の介護保険制度では負担がかかる。

まだまだ私達の旅は続きます。こんな家族もあるんだな、と思って頂ければ幸いです。

平成24年9月記

妻 池田曜子(62歳): 
脳幹出血により右半身麻痺、座位保持困難な体幹機能障害、歩行障害、燕下障害・眼震等。
食道瘻歴:2年6ケ月。今は食道瘻を閉じ、口から食べている。

妻の介護のブログ:http://ikeda49.sapolog.com/