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妻が病気に倒れて10年。
多くの人に支えられて過ごしてきました


池田 暁(夫) 札幌市在住

池田 暁さん 札幌市在住

●妻の病気をきっかけに胃ろうの存在を知る

平成15年3月5日、妻は病に倒れ、脳神経外科病院に搬送された。ICU(集中治療室)の病床にいる妻は、声を掛けても手足をさすっても返事はなく、意識が有るのか無いのか解らない状態でした。当時53歳でした。まだまだやり残した事がある妻の気持ちを思うと、胸が潰れそうになりました。

担当医からの説明によると、病名は脳幹出血。手術が行えず、点滴で症状を抑える処置が施されていました。

3週間が過ぎて気管切開をしました。その頃には妻に意識のあることが解りました。妻が何を話しているか解らないが希望が湧いてきました。

その後、治療の効果が現れ、4月に入った頃には、看護師から「ゼリーを食べても良いよ」と言われるまでに回復しました。しかし、ゼリーを食べさせたら39度の熱が出ました。誤嚥性肺炎でした。「回復しても身体に麻痺が残る」と担当医から聞かされていたが現実になると身体が震えました。医師からはとうとう「池田さんは口から食べたら命に関わる」と診断されました。

それからは経鼻管からの栄養摂取です。私達は普段当たり前に口から食べていますが、口から食べることができなくなると生命の維持が出来なくなります。それほど食べる機能とは大事な機能なのです。

その後、妻はリハビリ専門病院に転院しましたが、体調はおもわしくなくベッドで過ごす時間が長くなり、妻本人の生きる気力が続くのか心配でした。

私は良いと思う事は何でもやって、妻を助けたいと考えていました。大事な家族の病気で後悔したくなかったからです。痰が出るたびに看護師に吸引を御願いし、高熱が続く日もありました。健康に良いといわれる健康補助食品(ソフィβ-グルカン)を経鼻管から入れるよう担当医を説得しました。そういった取り組みによって妻の症状が安定に向かったことが何よりも嬉しかったのです。

「口から食べたら命に関わる」と言われていましたが、隠れて食べさせたゼリーに美味しそうに味覚の反応がありました。口から食べられるんじゃないかとの思いが湧いてきました。そして、「必ず身近に専門のリハビリ医師がいる」と信じてインターネットで様々な情報を調べました。担当医の勧めで胃ろうを造る検査をしました。妻は若いころに胃潰瘍で胃を切除しているので癒着があるため、「胃ろうの造設はできない」と結果が出ました。担当医からはもう治療方法は無いということなのか、介護療養病棟に移されました。

イライラした日々を過ごしていましたが、私は不思議に「何とかなるさ」と考えていました。病院ではベッドから車椅子での移乗は自由にさせて頂きました。妻を乗せた車椅子を押して院内を見て歩いたり、タクシーに乗って近くの豊平公園にバラを見に行ったりしました。

●口から食べることは人本来の機能

平成16年10月、PEGドクターズネッワーク研究会が札幌で開催されました。会場で札幌市のS病院の医師に話を聞くことが出来、妻の症状を話して、「何とか口から食べられるようにさせたい」と訴えました。医師は「意識は有りますか、意識が有れば口から食べる可能性が有りますよ」と教えてくれました。私はその言葉を信じて、わらをも掴むつもりで、その1ケ月後に転院を決意しました。

転院先の病院ではリハビリ専門医N先生に診て頂くことが出来ました。先ず、経鼻管を外して中心静脈栄養にしました。そして私達が望んでいた嚥下造影検査(VF)を実施してくれました。検査の結果、ゼリーなら何とか飲み込める事が確認出来たので、N医師は「ゼリーなら食べられる。明日から私が食べさせます」と言ってくれました。その言葉を聞いた時、とても嬉しかった事を今でも覚えています。それ以降、自宅でゼリーを造り、妻の所に持って行き食べさせました。N医師はその様子を微笑んで見守ってくれました。

年が明けて充分な栄養と水分を補給するために食道ろうを造りました。口から食べる事の効果は栄養を摂ることだけではありません。発音が良くなり、言葉が聞き取りやすくなるので、妻との意志の疎通が出来るようになりました。口から食べることは、人本来の機能です。一番喜んだのは食べる事が大好きな妻自身です。

体調も良くなったので、私達は以前よりも外出するようになりました。近くの公園や自宅にも頻繁に出掛けました。私達はもともと札幌の山岳会で知り合った「山ボーイと山ガール」なのです。北海道の雄大な大自然が私達の脳裡に焼き付いています。どんなピークだって2人で一歩ずつ歩いたら乗り越えられる。北国の大自然が私達を応援してくれている。そう考えていたから頑張ることが出来ました。

その頃から自宅に戻り生活する事を考えていました。

●考えようによっては在宅介護生活も面白いもの

平成18年6月19日、3年3ヶ月ぶりに妻は自宅に帰還しました。

それまで毎週土日には自宅に戻り何度も外泊し練習していたので、違和感はありませんでした。本当に皆さんが支えてくれたお陰です。今日から介護保険での生活です。

以前家族を自宅で介護していた友人からの教訓「家族の介護は楽ではない。介護人の健康が第一だよ。病気の家族はその次。介護人の休養日を作ったら長続きする」。ケアマネージャーに毎週ショートスティの出来る施設を探して頂き、ケアプランを組みました。その教訓を今も私は守っています。

食道ろうは漏れが酷く爛れて酷かった。水分もトロミ剤の助けを借りてストローで飲めるようになりました。担当医に外すことを御願いしました。外したら自然に閉じると聞かされていたが、外しても相変わらず漏れは酷いし見栄えも悪いので、縫って頂き閉鎖しました。

妻を介護しながらの生活も考えようによっては面白いものです。私達に役立つ情報の多くは行政や医療者からではなく、同じ様に在宅で御苦労されているご家族からもたらされるものです。私のブログを見てメールを頂く事も少なくありません。そうした交流を通じて実際に会うこともあります。

苫小牧に住む御家族には北大演習林を案内して頂き、家族風呂でリフトのある温泉についても教えていただきました。それ以来、東神楽町の「花神楽温泉」や士幌町の「しほろ温泉」に行ったりと、旅行の楽しみが増えました。美唄市の「ゆ~りん館」は自宅から近いこともあり、毎年春と秋に行くことにしています。身体に障害を持っていても温泉に浸かりたいのです。

私は生まれつきの視覚障害者で自宅には車はない。移動は専らJRや公共機関を利用します。夏になったら電動車椅子を借りてどこでも出掛けます。近くの宮田屋珈琲には良く行きます。美味しいコーヒーとケーキを頂く。妻は甘いケーキが大好きなのです。誰に遠慮もいらない自分たちで好きなように出歩けることは、自宅で過ごしているから出来る事なのです。好きなように過ごしストレスの少ない生活をする事で病気は少しずつ回復すると信じています。

妻は6人姉妹の末っ子、小さいときからテレビが友達だった。

今も変わらない。施設にいても自宅にいても、日中は車椅子に乗って過ごす。テレビのサスペンスや時代劇、自然紀行番組が好きです。視力にも障害があるので、主にテレビから情報を得ている。結構物知りで、話の種を記憶しているのです。

妻は食事の際、自由に使える左手で何でも時間を掛けて食べています。口の麻痺が有っても妻自身で食べ方を工夫して食べている。妻の好物は魚料理です。最初は小骨があるからと気遣ったが、綺麗に食べて骨だけ残します。調理は私の役目です。カボチャを蒸したり小豆を炊いたり、ホットケーキを焼いたりと、「案外料理も面白い」と感じるようになりました。料理の好きな妻の助言をもらいながらレパートリーも増やしています。

●再び緊急入院「口から食べる」が妻の意思

平成23年11月28日の朝、2泊3日のショートスティで老健施設に行きました。

やれやれとのんびりしている私の携帯電話が鳴り、「池田さんが車椅子でぐったりしている常勤医の指示で脳外科に運びます」と看護師からでした。

「またやってしまったか」と、血の気が引いていきました。取る物も取りあえず急いでタクシーで駆けつました。

しばらくして妻は救急車に乗せられてきたが、意識が無くぐったりしている。脳出血でした。

不安な気持ちで一夜を過ごし、朝が来ました。朝早く病院に行くと看護師が「朝、池田さんと話をしたよ」と酸素マスクを外してくれました。「何があったの。ここはどこ。私はだれ」と弱々しく話しました。その時は、「良かった命が繋がった」と感じました。

8年ぶりの脳神経外科病院のリハビリは充実していました。翌日からベッドサイドで理学療法と作業療法は施されました。しかし、言語聴覚療法は行われなかったので、「病気になるまで口から食べていたので、言語聴覚療法も入れて欲しい」と看護師に依頼すると。翌日からプログラムに加えてくれました。

しかし、看護師は医師の指示だと当然のように経鼻管を入れました。

入院時の聞き取りは生かされないのか、なにか釈然としませんでした。

回復期リハビリ病棟に移り、次第に治療の効果が出てきたが、食べる機能に関する検査は行われませんでした。担当医に聞いてみると「この病院にはリハビリ専門医がいない」とのこと、検査をするには転院するしかありません。「このままでは、一番大事な食べる機能が衰えるのではないか」と叫びたかった。

そして何度も何度も看護師や言語聴覚士に「妻は口から食べられるよ」と訴えた。「医師の指示だから」と看護師。「じゃあ医師に会って話をするから」と粘りに粘って、とうとう同意書を書いて介護食3を毎日お昼に食べさせてくれました。

私は妻のリハビリの時間にあわせて病院に出向いていました。運動療養師のHさんが装具を付けて歩いている。簡単そうに見えたので「私にも出来るかい?」と話したら、「やってごらん」と言ってくれました。身体に障害がある妻には、身体を動かす手助けが必要なのです。

そんな私達の気持ちを察したHさんは、装具を造る事を勧めてくれました、いずれ退院する時自宅で役立つと思ったから。

現在、装具は自宅で毎日、妻を支えて私と一緒に歩いています。ショートスティ施設にも持って行く。手足の筋力のリハビリと内臓の整調に役立っていると思っています。

3月半ばに、やっと検査設備のある病院に転院することが出来ました。私達はVF検査を希望していましたが、以前診察してくれた専門医師は退職してしまっていました。言語聴覚士の報告を聞いて、担当医師は確実な栄養の確保が出来ないため食道ろう造設に同意を求めてきました。それは私達の希望とは違う提案でした。一週間経っても治療は進まなかった。再度の医師との説明に妻と一緒に話を聞きました。

妻は「痛い手術はいやだ。私、自分で食べるから」と訴えました。

その意思表示により治療方針が決まりました。医師は経鼻管を外し、翌日からミキサー食に変えました。

●「今まで通りの生活」のため、手術に踏みきる

そして暖かくなった5月中旬過ぎに妻は6ヶ月ぶりに自宅に戻ってきました。以前と同じ様に、外泊を何度も練習していたので、すんなりと普段の生活に戻れました。

麻痺している右足が浮腫むので、エアマッサージを毎晩行っています。

また食べ過ぎだろうか、妻の体重が増えてきました。それは、妻にとっても介護する私にとっても、負担になることです。訪問リハビリを増やして体を動かすよう気を付けています。

平成25年5月下旬、妻はリハビリ最中に「お腹が痛い」と訴えました。緊急性はないと判断し、安静にして様子を見ていましたが、夜中に再びむせて大量に吐いてしまいました。どうやら寒気がするらしくいつもと様子が違いましたが、一晩安静に過ごしたら状態が落ち着きました。その後、いつも行く病院で診ていただき、急性胆嚢炎と診断され即入院しました。本当に何が起きるかわかりません。しかし、慌てても仕方ありません。

担当医は「最善の治療は胆嚢を切除することですが、妻は3度の脳障害を起こしているのでリスクがある」と判断し、切除ではなく投薬治療を勧められました。

投薬治療では治療期間が長くなり、妻の体にも影響が残ります。そしてなによりも<今まで通りの生活が困難になる>と思いました。

リスクを承知の上で手術のできる病院を探していただき、即日転院の手配をしていただきました。

夕方、すぐに担当医のM医師は検査を行ってくれました。そして、M医師は「胆嚢が腫れていて、黄疸症状も出ている、胆嚢に針を刺し腫れを抑えて胆汁を抜く」と治療方針を説明していただき処置をしていただきました。

妻は管だらけのベッド生活を送ることになりましたが、調子は良いようです。ひとまず安心しました。

一週間経って、医師と面談がありました。「内視鏡を十二指腸まで伸ばす。十二指腸には胆管(胆汁の出口)があり、そこに空気を入れて膨らまし胆管の中にある胆石を掻き出す」と説明を受けました。最新の内視鏡治療は本当に進んでいて、お陰様で妻は回復しました。食べ物も以前と同じように食べられるようになりました。その2週間後に妻は無事退院。ダメージは少なく、以前と変わらない生活を始めることが出来ました。

●願いはただ1つ「一日でも長く妻と自宅で過ごしたい」

退院から10ケ月過ぎましたが無事に過ごしています。病気を治すのは本人自身です。医師は安全策で治療方針を決めます。ときに、その方針は私達患者・家族の希望と合致しないことがあります。

私は妻が元の生活を取り戻せる最善の治療を希望しています。

今まで病気の妻に付き合い、沢山の医療機関にお世話になってきました。ですが、医師の言う通りにする「良い患者と良い家族になる」と寝たきりになってしまいます。そんな思いが今も私の心を支えているのです。

平成25年10月末、北海道新聞に「胃ろうを付けるとき、外すとき」の連載記事が掲載されました。反響が大きかったと担当記者は言います。大きな障害を持ってしまった妻、いつか食道ろうを選択する時期が来る可能性は大きい。

その時は先ず専門の医師に嚥下造影検査(VF)や嚥下内視鏡検査(VE)で診断を頂いて、口から食べる機能が数パーセントでも残っている場合は、食べる訓練の選択をしたいと思っています。なぜなら、口から食べる機能には人が生きていく上で計り知れない可能性を秘めていると思うからです。

そして、胃ろうについて思うことは、「胃ろうを造り、充分に栄養が取れるようになった時こそ、口から食べる訓練を開始する時期」だと思っています。

口から食べられるようになり、歩けるようになって、自宅に戻り元の生活を取り戻したいと全員が願っているのではないでしょうか。医療や介護はその為にあると信じています。

私たち夫婦の10年の日々の思いが、同様の方々の元にお届けできれば幸いです。

平成26年4月

札幌市在住 池田 暁・曜子
介護のブログ【池田暁のチャンネルで妻との日々を書いています】:http://ikeda49.sapolog.com/