HOME > トラブル&ケア > おサル先生の在宅医療入門 > 「一番輝いていた時!」の巻

次週の往診には、家族が自分のことをどのような気持ちで受けとめているかを案じながらも、いくつかの資料を用意しておいた。世に言う「SLブーム」は昭和四十年代も後半であったため、すでに北陸線は電化が完了しており、SL時代の倶利伽羅峠の写真など撮っている人はほとんどいなかった。それでもおサル先生は貴重な数葉の写真を集めていたので、それを往診当日、持参することにした。

玄関先では「先生。また父に何か鉄道の話をしてやって下さい」と息子さんが迎えてくれた。「ありがとうございます」とまた深々と頭を下げて部屋に入ると、服部さんは珍しくベッドの端にちょこんと坐っていた。

「今日はこういうものをご用意したんですよ。ご覧いただけますか?」と例の写真を取り出した。貨物列車を従えた二台の機関車が、駅を出た最初の左カーブを越えた所の写真である。しばらく首を傾げて眺めていた服部さんは、

「ああ、ここや。ここからがきついんや。ずっとふかして行くや。」

「最大締切率で?」

「そう、ほとんどフルギヤーや。」

「空転もしたんですか?」

「すぐに砂を撒く。」

「加減弁ハンドルを戻して…」

「加減弁を戻して砂を撒くんや。」

服部さんは自分で写真を手に取って懐かしそうに目を細め、「ここから先のトンネルまでが一仕事なんや。」

父親とおサル先生のやり取りを見ていた息子さんは目を丸くしてつぶやいた。

「父さん…。」

こうして、服部さんとおサル先生は、なんだか人間国宝とそれを取材する記者のような関係になっていた。もちろん、服部さんの言葉数が多くなったのは、胃瘻栄養による体力快復もあったのだろうが。服部さんの話を通じて、おサル先生の「倶利伽羅峠研究」は単なる遺構めぐりから、リアリティーあるものへと変貌を遂げていた。しかし、それでもなお、父が見せてくれたという、トンネルに向かって驀進する機関車の生きた姿を思い出すことはできなかった。